長い物語の序章  第二幕(2)





 すると扉の向こうから声が聞こえてきた。
「グレアム様がお見えになりました。」
後ろから声がして、扉が開く音が聞こえた。
アルバートさんが立ち上がり、扉の方に歩いて行った。

「やあ、久しぶりだね。
僕がウィリアム・アルバート・アードレーだ。
アルバートって言った方が早いかな。
いやあー、大きくなったんだね。
いやいや、立派な紳士にこんな事を言うのは失礼かな。」
彼だ…。脈拍が早くなる。
キャンディは立ち上がり、振り返った。
 短く切った髪にターンブル&アッサーのストライプのクレリックシャツ、ピンクのペイズリー模様のネクタイ、ネイビーのスーツを着た、ストラスフォード劇団の看板俳優であるテリュース・グレアムが立っていた。
背は高くなり、肩幅も広くなって立派な大人の男性になっていた。
キャンディは目をパチパチさせて
「お久しぶり。お元気そうね。」
笑顔で挨拶しているつもりだったが、顔がこわばっていったい自分がどんな顔をしているのかわからなかった。
「君も元気そうだね。」
 振り返った彼女は大人の美しい女性だった。帽子の下から覗くブロンドの巻き毛は今流行りのボブスタイルで、肌は白く、トレードマークのそばかすはほとんど消えていた。唇にうっすらとルージュを引いて、緑色の輝く大きな瞳はそのまま。
いや、更に美しく光り輝いて、久しぶりに見るその笑顔は凝視できないほどまぶしかった。
黙って見つめ会う二人に
「まあまあ座って。」
とアルバートさんがにこやかに着席を促した。
(ちょっと、心臓の音が周りに聞こえそう。
どうしよう、ちょっと上手く呼吸もできないし。
ああ、ちゃんと息をして、倒れそう、しっかりして、いつものように笑って、笑って、キャンディ!)

 アルバートさんが簡単に自分の事を話していた。
彼女の養父である事。事業の事。
仕事でこちらにきたが、今日戻らねばならないこと。
しかし、彼女の耳には何も入らず、やっと心拍数も落ち着いた頃、
「それで、まだ出発まで時間があるから、二人で昔話でもするといい。
 キャンディ、3時になったら降りておいで。
 ロビーにいるから。
 じゃあ、テリュース君、また一か月後にはニューヨークに来るんだ。
 その時機会があればゆっくり食事でも楽しもう。」
そう言い、彼と握手を交わしてアルバートさんは出て行った。
部屋を出る際にそっとキャンディにウィンクをして。
(アルバートさん、行かないで…)
急にキャンディは心細くなった。
残された二人の間にしばらく気まずい沈黙の時間が流れ、
「あの…。」
二人同時に言った。
「先にどうぞ。」
「Jinx!Jinx again!(2)」
その瞬間二人はお互いの目を見て、童心に返ったように大笑いした。
「驚いたでしょう?
 あのアルバートさんがウィリアム大おじさまだったなんて。
 ウィリアム大おじさまはヨボヨボのおじいさんではなかったの。
 しかも世界を駆け回る大大実業家なのよ。」
「大おじさまはすぐ死んでしまうって言っていたんだ、きみは。
 でも全然変わっていないな。
 まあ、カッコいいスーツを着ている所くらいかな。
 きみも鼻の高さはまったく変わらないようだが…。」
からかうような笑顔で言った。
「まったく、口の悪さは相変わらずなのね。」
キャンディは口を尖らせた。
 急に距離が縮まったように二人は話を始めた。
学生時代のたわいない話。
そして今の仕事の事。
あっという間に時間は過ぎていった。
テリィの瞳は輝いていた。昔のままの彼の澄んだ瞳がそこにあった。
キャンディは少し安心した。
(あの哀しげな手紙は思い過ごしだったのかもしれない…。)
「ニューヨークには久しぶりに来たの。
 随分変わったのね。
 高いビルがたくさんできたし、工事中の所もたくさん。
 シカゴも今建設ラッシュで同じね。
 まあわたしはほとんどミシガンの田舎暮らしなんだけど。」
キャンディはおどけてみせた。
 急にテリィの瞳が曇った。
「こうやって昔のように話すことが出来て嬉しいよ。 
 でも、正直に言ってくれ。
 あんな手紙を出してきみは迷惑だったか?」
そして視線を落とした。
「迷惑だなんて…、ただ少し驚いただけよ。」
彼の急な変化にキャンディは戸惑いを覚えた。
「本当は、先ずはきみに許しを乞わなければと思って今日は来たんだ。
 こうやって何事もなかったように会う事がどんなに厚かましいかは重々承知だ。
 きみを傷つけておきながら、あの日きみを手放したこと何年も後悔してきたんだ。
 笑いたいなら笑ってくれ、我ながら情けない男だと思っているよ。
 きみの前に二度と姿を現す事はできないとも思った事もあった。
 でもこの思いを自分だけの中にずっと抱えていることが出来なかった。
 だから手紙を書いた…。」
彼女は言葉を失った。
以前も見た事があるようなこんなに胸をつかれるほどの哀しい彼の姿。
(あの日……。あなたもずっと苦しんでいたというの?
そんな事って…)
信じていたものが今目の前で音を立てて崩れていく。
 ずっとあなたの幸せを信じてきた。
 あなたが幸せである事がわたしのささやかな幸せだった。
 誰も幸せではなかったの?
 でも、ここで誰かを何かを責めて何か答えが出るのだろうか?
 何かが返ってくるわけではない。
ー大事なのは今なんだよ。ー
 アルバートさんの言葉が聞こえてきた。
 そうだ、過去は結局過去でしかないのだ。
彼女は思い直したように真っ直ぐ彼の方を見て答えた。
「許すことなど何もないわ。
 私が自分で決めた事だったのだから。
 あの時はそれが一番正しいと信じていたの…。
 それがあなたを苦しめたのなら、私も謝らなければならないわ。」
「君を責めるために来たんじゃない!俺が…」
彼は叫んだが、まだ下を向いたままだった。
「待って言わせて!」
椅子から立ち上がり、彼女が強い言葉で遮った。
「あの時傷ついたのは、傷ついたのは私だけじゃない!
 あなたが背中越しに泣いてくれた事を知っていたわ!」
その言葉に彼は目を見開いた。
キャンディは少しトーンを落として続けた。
「でももう過ぎた事なの。
 もう時間は戻せないのよ…。
 もしかしたら…わたし達は曲がり角を間違えて歩いてきたのかもしれない。
 間違って茨の道を…。
 でもね、今のあなたがあるのはその苦しい過去があるからなのよ。 
 あなたは苦しくてもしっかりと自分の足で歩いてきたの。
 全てがあなたの糧となり、今のあなたを作ってきたはずだわ。
 成功したあなたを遠くからでもどんなに誇らしかったか…。
 私も苦しかったけれど、自分の道を見つけて頑張って歩いてきたの。
 あなたに胸を張って話せる事をしてきたつもりよ。」
彼女は話しながら自分の心の中で霧が消えていくように感じた。
「私ね、もう2度とあなたには会えないと思っていたの。
 でも今こうやって会うことができた。
 あなたがわたしと話す事ができて嬉しいと言ってくれた。
 それだけで今わたしは幸せなの。
 ありがとう、手紙をくれて…。」
テリィはようやく顔を上げてキャンディを見た。
彼女は笑顔だった。
緑色の潤んだ瞳でまるで聖母のように慈愛に満ちて温かく彼を見つめていた。
泣き虫の少女はもういなかった。
彼も立ち上がって彼女と向き合った。
「きみは…強いんだな。」
(きみを守りたいと思いながら,守られていたのは自分だったのかもしれない…。)
「強くなんかないわ。
 周りに力になってくれる人がたくさんいたからよ。
 わたしは恵まれていたんだわ。」
首を横にふり、寂しそうな笑顔でキャンディが言った。
ふと彼女の少女時代の苦労が彼の頭に浮かんだ
(ああ、きみもずっと苦労してきたんだ。
ダメだな…、俺は…自分のことばかりだ。)
曇っていた彼の青い瞳が少しずつ晴れだしてきた。
「俺もきみに今日会えて…幸せだ。また会えるかな?」
とぎこちなく微笑んで聞いた。
「もちろん!!」
彼女は笑顔で右手を差し出した。
彼が握ったその温かな小さな手は変わっていなかった。
「話したい事が、あなたに話したい事がたくさんあるのよ、テリィ。」
そう彼女が言った途端、彼の体内で燻っていた炎が着火され、思わず握っていた手を引き寄せ、左手で彼女の肩を抱き、唇を重ねた。
 キャンディは驚き、しかし、そのまま目を閉じた。
 あの雪の日に色を失った思い出が今、色鮮やかに甦る。
五月の風、木洩れ日、緑の木々と苔の匂い、色とりどりの花、そして困惑、よくわからない情熱、心の中にあんなにかたく仕舞い込んでいた思いが一瞬にして身体中を駆け巡る。
 その時、時計が3時を告げた。
「行かないと…」
 唇を離し、上目遣いで彼の目を見た。
彼はもう目をそらさなかった。
「引っ叩かないのかい?ターザン・そばかす」
口角を上げ、挑むように彼が言った。
「2度目だから…その必要もないかしらね。」
肩をすくめて少し恥ずかし気に微笑んで彼に返した。
「それから、わたしはキャンディよ。
キャンディス・ホワイト・アードレー。
忘れてしまったみたいだから、次会う時までに思い出しておいてちょうだいね。
もう時間だから行くわ。
じゃあ、またね。」
彼女は頬を少し染めながら軽やかに部屋を出て行った。
キャンディは彼の突然の行為にあまり動揺していない自分にいささか驚きながら、心に新たな力強い感情が湧き起こるのを感じていた。
(大事なのは今…。
私は…私の気持ちはもう決まっている。)

ロビーに降りるとアルバートさんが待っていた。
笑顔を輝かせながら走ってきた彼女を見て、全てを理解したアルバートさんもまた晴れやかな笑顔だった。



(2) Jinx!Jinx again!
同じ言葉を同時に言った時に使う子供の遊び言葉。

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